ムササビをハディスと一緒に追いかけていたレノムスは、ふいに頭を小突かれたような、髪を一筋引っ張られたような、奇妙な感覚を覚えて立ち止まった。
その時は、まだ自分に魔力を感じ取る能力がある事がわからず、その感覚に戸惑ったことに覚えている。
「どうしたの? レノムス?」
「う、うん、ちょっと」
周りに、何か変わった物はないかレノムスはあたりを見回した。
分厚くつもった落ち葉、立ち並ぶ木々、遠くに見える教会と街をへだてる壁。何も自分達に危害を与えてくる物はない。なのに、なぜか落ち着かない。
「いや、なんでもないよ」
きっと、気のせいだろう。そうごまかして、レノムスはハディスと遊びに戻ろうとした。しかし、焦りにも似た不吉な予感は、ますます強くなっていく。
この不安の原因を突き止めないと、落ち着いて遊んでなんかいられない。どこを目指しているのか、自分でもわからないまま、レノムスは早足で歩きだした。
「ちょと待ってよ!」
後からハディスの声がした。
急がないと、取り返しのつかないことになる。そんな言葉が頭に浮かんだ。取り返しの付かないことって、何? わからない。
早足は、いつの間にか駆け足になっていた。白い息が夜空に溶ける。
気づいたら、いつのまにか治療院の近くに来ていた。心臓が痛むくらい鼓動が速い。
院の裏側から悲鳴が聞こえた。冷たい風に乗り、錆びた鉄のような匂いが漂ってくる。
治療院の角を曲がる。そこでレノムスは足を止めた。
地面に、血が広がっていた。それは薄闇の中で黒ずんで見え、墨のようだった。その真ん中に、人がうつぶせに横たわっている。
いつもきれいにまとめられていた銀髪は、肩に、背中に広がっていた。華奢な体は、ほとんどが血で染まっている。顔を見なくても、それが姉のリティリアだとわかった。
「は……」
姉さん、と言ったはずの言葉は、無意味な音になった。高い熱が出たときのように、まわりを取り囲む現実が遠退き、歪んでいく。
姉のものではない、うめき声。姉のそばに動く影がある。
それは、確かに人のようだった。しかし、どこか歪(いびつ)に見えた。獣が泉の水を飲むように、その影は半ば四つんばいになり、赤く染まった口を姉の体に寄せている。
その口から立ち上るのか、姉のまだ暖かな血からか、白い湯気が空気に溶けていった。静かな闇の中でやわらかい物を咀嚼(そしゃく)する音が静かに続いていた。
顔は見えないが、その体つきと服装からそれが誰かを認めて、レノムスは囁くように問いかけた。
「どうして……」
どうして、フィアドが姉を殺しているのだろう。どうして、姉が愛する人に殺されているのだろう。一番あってはいけないことなのに。
小さなレノムスの声に気づいたのか、リティリアの指がかすかに動いた。その時まだ、姉はその時、まだ生きていたのだった。
うつむいていたフィアドが顔をあげた。
その目を見た瞬間、レノムスにはわかった。義兄が、どんな言葉も想いも届かない、ただの魔物に成り果てたことを。
自分でも気づかぬまま、魔族の血を引いている者は確かにいる。そして極度の負の感情や、強い魔力で魔族化する。
殺される。
急に恐怖が全身に襲いかかってきた。ここにいたら僕は殺される。けれど足が震え、息ができず、動くことすらできなかった。
ふいに物を倒すような音がした。どこか遠くで、女が悲鳴混じりに叫ぶ声が響く。
「化物! 今、今、そこに化物が!」
その音と声で、我に返る。今まで悪夢の中にいたようだったのが、その物音と声でこれは現実だと思い知らされたようだった。まだ震える足を無理やり動かす。いくらも行かないうちに転んだ。起き上がり、また走りだす。
レノムスは、姉に背をむけて夢中で逃げ出した。