佐代(さよ)は、河のほとりにしゃがみこみ、顔を覆っていました。河原の丸い石に、落ちた涙がまだら模様を描きます。
「あれ? 佐代。どうしたんだ?」
心配そうに近寄ってきたのは寅吉(とらきち)でした。
寅吉は、佐代がちいさな頃からこの河の近くに来るとよく会う少年です。おそらくこの辺りに住んでいるのでしょう。いつも相談に乗ってくれたり、楽しい話を聞かせてくれたりする寅吉が、佐代は大好きでした。
「佐代。お前もうすぐヒサの所に嫁に行くんだろ? ヒサの母ちゃんにでもいじめられたか」
のぞきこんでくる寅吉に、佐代は首を振りました。
「違うの。そうじゃないの。ヒサさんが巻き割りでケガをしてしまって。傷口が蒼(あお)く腫れて…… じい様もばあ様も、毒が全身にまわっている、こうなったらまず助からないって……」
涙を流す佐代を、寅吉は黙って見つめていました。
「せっかく、一緒になれるのに。あの人が死んでしまったら…… 私は……」
かなりの時間が立ってから、寅吉はなぜかにっこりと微笑みました。
「なんだ、そんな事か」
「え?」
「おいらの友達に、よく効く軟膏(なんこう)を作る奴がいるんだ。そいつから薬をもらってきてやるよ」
「本当?」
佐代は涙の止まった瞳で寅吉を見上げました。
その薬が本当に効くのかどうか、わかりません。しかし、少しでも可能性があるのなら試してみたいと佐代は思いました。
「けど、困ったわ。その方に上げるお礼を持っていないもの」
「そうだなあ」
またしばらく考え込んでから、寅吉は言いました。
「戸板がいいな。アイツ、家の戸が腐ったって言ってたから」
戸板とは、随分変わったお礼ですが、それでヒサが助かるのかもしれないなら安いものです。今まで、彼が助かるなら自分の命だって差し上げますと神様にお願いしていたのですから。
「よし、じゃあ三日後に板を持ってここに来てくれ。おいらも薬をもらってくるから」
「ありがとう寅吉!」
返事の代わりに、寅吉は少し寂しそうな、不思議な笑みを浮かべました。
「どうかしたの?」
その表情がひどく気になって佐代が聞くと、その笑みはすぐに元気のいい、いつもの寅吉の物に戻りました。
「なんでもない。気にするな」
佐代もつられて笑顔になった時、河で大きな魚が跳ねました。一瞬気を取られた佐代が視線を戻した時、寅吉の姿はもうありませんでした。
約束の日、約束の場所。佐代が父に手伝ってもらって戸板を持っていくと、寅吉はどこにもいませんでした。その代わり、小さな古ぼけたツボが置いてありました。
「寅吉?」
どういうわけか、ひどく嫌な予感がして、佐代は彼の姿を探しました。
「寅吉!」
あちこち駆け回りノドが痛むほど名を呼んでも、ただ河のせせらぎが聞こえるだけで寅吉の姿は見えません。いつもなら、待ち合わせでもしていたように会えたのに。
薬を使い、ヒサの傷が治った後も、寅吉は姿を見せませんでした。河の近くの住人にも聞いてみましたが、不思議な事に皆、この辺りに寅吉と同じ年頃の少年は住んでいないと口を揃えて言いました。話を聞いた村人達は、きっと寅吉は佐代を守る神様だったのだ、と噂をしました。
滝の裏にある小さな洞窟の中に、ノミで木を削る音が響きました。
「しかし、人間の女のためにそこまでやるかねえ」
ちゃかしたのは、隣に座っていた河童の一清(かずきよ)です。
「うるさい」
寅吉は、器用に金槌を扱っていきます。間に水かきのついた指で。
手元に目をやっていても、一清が寅吉の甲羅を見つめているのがわかります。寅吉の甲羅は、下半分がなくなり、釣鐘のように情けない形になっていました。
「確かに甲羅を削って練ればどんな傷も治る膏薬(こうやく)ができる。けど、神通力(じんつうりき)の源の甲羅を削ったら、お前、あと百年は人間に化ける事はできないぞ」
「いいんだ」
寅吉はノミを置きました。戸板を削って作った欠けた甲羅の半分は、なかなか上手にできました。切れ込みを残った甲羅に差し込むと、遠目からはきちんと円く見えます。
「そんなもん作ったって、すぐ水で腐っちまうよ」
「いいんだ。それまでには、石でもっと頑丈なのを作るから」
「そういえば、今日が祝言の日だろ? なあ、お前佐代に惚れてたんじゃないのか? 会えなくなって、本当に……」
「いいんだ!」
一清の言葉を最後まで聞かず、寅吉は洞窟から滝つぼへと飛び込んでいきました。
黄昏(たそがれ)の空を映して、水は黄金(こがね)に輝いていました。真珠色と銀色の泡をくぐり、水面に顔を出した寅吉はここからでも祝言の祝いの楽が聞こえるだろうか、とぼんやりかんがえました。
-了-