その夢の中で、ハディスは六歳だった。窓から漏れるオレンジ色の明かりが石畳を濡らしている。誰もいない夜の広い通りを、ハディスは必死でかけていた。
いや、誰もいないのではない。よく耳を澄ませば、ほんの小さな衣擦れの音や、押し殺しきれなかった咳が家から聞こえてくる。街の者達は皆、戸を閉ざし口を閉ざし、気配を殺しているのだった。だって今、得体の知れないバケモノが一匹、街をうろついているのだから。
そのバケモノは真っ黒で、どろどろとした目も耳もない生き物だと、見てもいないのになぜかハディスは知っていた。そしてそれに捕まれば体を引き千切られて殺されてしまうことも、そいつが一人逃げ遅れた自分を狙って探しまわっていることも。
「開けて!」
ハディスは傍にあった扉を叩いた。中にいるはずの人間は、入れてくれるどころか声をかけてくれもしない。
何かを引きづるような音が響く。バケモノがもう、すぐ後、角の向こう側に迫っている! ハディスはまたムチャクチャに走り始めた。路地とも言えない建物の隙間に入り込み、そこにあった木箱の隣にしゃがみこむ。抱えた両膝に額をこすりつけるようにしてちぢこまる。体の震えが止まらない。心臓の音がうるさくて、バケモノに聞こえてしまうのではないかと思った。
ふいに澄んだ声がして、ハディスはぎくりと顔をあげた。
「ハディス! どこですか?」
(ロレンス?! なんでここに?)
あんな大きい声を出したらバケモノに気付かれてしまう!
バケモノのことを知らないのか、ロレンスはハディスの名を呼び続けている。
駆け寄って忠告したかったけれど、体が糊付けされたように動かない。
「ハディス!」
大通りから、ロレンスが顔をだした。六歳のハディスと不釣り合いに、現われた彼は今の青年の姿だった。
「ここにいたんですか、ハディス」
ロレンスが早足で近付いてくる。
「立って。逃げましょう。ケガは?」
ロレンスはハディスの手を取って立たせる。そして服の汚れを払いながらハディスにケガがないかチェックをし始めた。
ハディスは、自分が両手を後に回しているのに気がついた。そしていつの間にか、その手が抜き身の小さなナイフを握り締めているのにも。
なんでこんな物を持っているのだろう。それがひどく忌まわしい、気味の悪い物に思えて、ハディスはそれを投げ捨てようとした。
指が開かない。ぞっと血の気が引いたけれど、悲鳴も挙げられない。
ロレンスは異変に気付かずに顔をのぞきこんでくる。
まるで誰かに操られているように、ハディスの手が勝手にナイフを握り直した。前に突き出せるように。
ロレンスの後、道の隅に、赤黒い塊がへばりついているのが見えた。切り刻まれたリンクス。いつの間にかハディスの手はべっとりと血で濡れている。
ああ、そうか。街をうろついているバケモノの正体は自分自身だったのだ。怖くて怖くて、泣きたいのに涙がでない。
頬の筋肉が引きつっているのを感じ、ハディスは自分の体が笑みを浮かべているのに気づいた。
初めてそこでロレンスが不思議そうな顔をした。
このバケモノはロレンスを殺す気だ。リンクスや、あの優しかった女の人のように、切り刻んで。ロレンスに警告をしようとしたが、まともに口を開くこともできない。手にこめられる力も抜くことができない。
ハディスは短剣を振りあげた。
悲鳴を挙げる間すらなく、ハディスはそこで唐突に目を覚ました。大きく吐き出した息は細かく震えていた。
目が覚めた場所はもちろん夜の街などではなく、見慣れた自分の部屋だった。窓にはカーテンが引かれ薄暗い。リンクスは隅に置かれたバスケットの中で眠っている。強いていつもと違う所をいえば、ベッドの傍に旅用の背負い袋がおかれ、袋から木の束がのぞいている所か。
魔術に使う薬草や石の類は街で買うとべらぼうに高い。決まった日時に、決まった手順を踏まないとならないからだ。ハディスは気晴らしの旅代わりに、何より必要経費を浮かせてもうけを増やすために、気が向くと材料収集に数か月出掛けることがあった。
この悪夢を見るときは、大抵体調が悪いときた。今朝早く帰ってきて着替えもしないまま眠ってしまったのだが、こんな夢を見るなんてやはり疲れていたのだろうか。
急に響いたノックの音に、まだ完全に悪夢の影響から抜け切っていないハディスは少し驚いた。
「ハディス、まだ帰って来ていませんか?」
ロレンスの声にハディスは舌打ちをした。
夢の中で殺した罪悪感というわけではないが、今は顔を合わせたい気分ではなかった。かといって居留守を使うのも、たかが夢ごときで怯えているのを認めたようで気が食わない。
しかたなくハディスはベッドから起き上がって戸にむかった。
「なんだ? 仕事でも持ってきたのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
開けた扉の向こうでは、ロレンスが下層の修道士のローブを着て立っていた。手に袋を提げている。
(たまにこいつが何を考えているのかわからなくなる)
魔族の血をひいている自分との付き合いが表ざたになれば、ロレンスはただではすまないはずだ。普段完璧といえるほど政敵に隙を作ることのないロレンスが、こうやってノコノコと考えもなしに自分の家を訪ねてくるのがたまに不思議に思える。
ロレンスは部屋に入りながらいう。
「逐一居場所を報告しろとはいいませんが」
そういう口調はおだやかではあるものの、どこか機嫌が悪そうだった。
「長く留守にするときぐらいは教えてください。何度か訪ねたんですよ」
「ああ、そうだったな」
応えると、ロレンスの形のいい眉を軽くしかめた。
「なんだか機嫌悪いですか?」
その質問には答えず、ハディスは唇を歪めた。
「一応、お前って俺の見張りだったっけ? 教会に頼まれた。まあ、見張っていた化物がいなくなったら問題だわな」
「ハディス様」
今まで黙っていたリンクスが、咎めるように主人の名前を呼んだ。
それこそ操られてでもいるように、言うべきではない言葉が止められなかった。
ロレンスはただ黙って聞いている。
「それこそ、俺がどっかで人でも殺してきたら、お前の立場がないもんな」
ロレンスは大きくため息をついて、「手に負えませんね」とつぶやいた。シワがついて掛け布団がめくれたベッドに目をやった。
「どんな夢をみていたのか知りませんが、私に当たらないでください」
ロレンスの口調はあいかわらず静かで、呆れているのを隠そうともしていなかった。
「それとも、寝かし付けて欲しいですか? 小さい時みたいに」
ハディスはロレンスの襟首につかみかかる。
粗い布に触れようとした指先は、見えない壁に弾かれた。半球形の淡い光で包まれている。ロレンスが持っている魔道具を発動させたのだ。
「あなたはどうも私のことを見くびるキライがありますが」
ふわっと結界が広がり、ハディスは軽く押されたようによろめいた。
「自分の身を守る術くらいは持っているつもりですよ」
ロレンスは結界を解いた。
夢の中のように、黙って刺されるような奴ではないということか。そう考えれば悪夢に怯えていたのがなんだかひどくバカらしくなった。
「なんだか今日は歓迎されていないようなので帰りますね」
小さく音をたてて扉が閉められる。遠ざかりかけた足音はすぐに引き返してきた。閉まったばかりの扉が細く開いた。
「なんだよ!」
ロレンスの優雅な腕がドアの隙間から伸び、床の上にビンを一本置くと、さっと引っ込めた。
そういえば、ロレンスがバッグを持っていたのを思い出す。
ビンの首にかけられた札をみると、中身は教会で作った葡萄酒だった。作った年代を当てられるほど通ではないが、教会の物は他よりうまい気がして、ロレンスにもらえないか頼んでいたのを思い出した。
彼がやって来た本来の目的はこれをくれるためだったようだ。
「ハディス様」
リンクスが言った。
「あとで、お礼を言わないといけませんわ」
「……わかってる」
なんだかロレンスに負けた気がして、ハディスはため息をついた。
了